誰かの為に嘘を付いたり、オブラートに包んだり。
そういう事は必要な事だと思う。
その所以がその人の為になるように、そう願った結果なのだから。
でも、自分の気持ちに反する事まで包んでしまうのは。
僕は、良しとは思わない。
例えそれがその人の為だったとしても。
なぜならば。
僕はそうする人に対して本当にどうすれば一番いいのかわからないから。
おそらくこれがベターだろう、模範的な答えしか出せないから。
例えば、
僕と話している相手が「楽しい」と言ったとしよう。
僕に分かる事は相手が「楽しい」と言ったという事だけ。
相手が本当に楽しいかどうかは別問題。
同じようにその人の口から出た言葉を全部頭のどこかで疑問符を付けねばならない。
その人が目の前で笑っていたとしよう。
僕は頭のどこかでその笑顔を疑わねばならない。
だから、僕はそう言った相手に当たりさわりの無い事しか言えない。
「楽しい」という言葉の裏を探らなければいけないから。
それはその人の言葉ではなく、僕の為に造りだされた言葉だから。
どうでもいいと思う人ならこれで充分だと思う。
でも、
僕は。自分の大切な人にコレをやるのは嫌だ。
・・・嫌だけれど。もしかしたら。
本当は僕が人の枠から外れているのかもしれない。
本当は普通の事なのかもしれない。
自分の大切な人の心をリアルタイムに感じていたいと思うことは、愚かだろうか?
自分の大切な人の本当の飾りの無い気持ちを知りたいと願うのは、傲慢だろうか?
もしも僕が、愚かで、傲慢で、人の枠から外れているのだとしたら。
いいだろう。僕はそうする人に対して”同じように”しよう。
望まれる表情をしたペルソナを身に着けて、望まれる言葉を造り出そう。
そう。それが最後のいちじくの葉。
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